JAS39誕生
Birth Gripen
【グリペン 伝説上の動物有翼の獅子グリフォン】

永世中立国として独自の防衛力を維持しつづけたスウェーデン。J29ドラケン,J37ビゲンに代わる次世代戦闘機構想が1980年にスタートしました。
1960〜1980年代…全世界のあらゆる戦闘機は極めて高性能になり、その代償として開発費、製造費は文字通りうなぎ上りとなりました。経済状況を考えず、単純な購入費のみを上げると、1955年自衛隊配備のF-86Fで1億円、F-104Jで5億円、F-4EJで40億円、そして1981年配備のF-15Jで100億円と、25年の間で実に100倍も高騰したことになります。
100倍もの開きがあるのは日本の高度成長時代だからこそ、というのも有りますが、世界的に高騰の傾向があったのは疑いようがありません。

そのため、当初は自国開発、生産のコストから、そのリスクを危ぶむ声もあがり、国産案の他にF-16ファイティングファルコン、F/A-18ホーネット、F-20タイガーシャーク輸入・ライセンス生産が米国から提案されました。しかし、やはり国内軍需産業からの国産化の声が強く、2年後の1982年6月に国産化が決定となりました。国産のリスクに対してはサーブ(比率65%)、エリクソン(16%)、ボルボ(14%)、FFV(4%)各社が結託しJASグループが結成され、同時に5機の試作機と、量産型30機の契約が結ばれ、さらに110機の追加オプションが結ばれました。

サーブは機体開発製造、試験飛行を担当、エリクソンはレーダーをはじめとするのアビオニクスの開発製造、ボルボはジェネラルエレクトロニクスF404エンジンを元としたエンジンの開発製造、FFVは地上整備機器の開発製造を担当。サーブは航空機、エリクソンはテレコム、ボルボは自動車、FFVはカールグスタフなどで有名なスウェーデンの軍需企業です。

また、この時にスウェーデンエアフォースマガジン誌での投票により「Gripen」の名が与えられることとなります。

これは第4世代と呼ばれる戦闘機の単独開発の難しさが現れたケースと言えるでしょう。アメリカであらば、ジェネラルダイナミクスにグラマンやマクダネル、そしてダグラスが消え、さらには各社を吸収し生き残ったロッキードやボーイングですら最新鋭の第4世代戦闘機F/A-22やF-35の例のように、単独で開発することは難しくなっています。


グリペンに要求された能力は以下。
・単座であること。

・単発のエンジンであること。

・エレクトロニックコントロールシステム(フライバイワイヤ)による操縦装置と、バックアップを持つこと。

・さらにアナログのバックアップを持つこと。

・あらゆるミッションをこなせるマルチロールであること。

・可能な限りの機体コストの低減。

・きわめて高い整備性。

・高度なECM,ECCM能力。

・STOL性。
...etc。




・1985年:ジェネラルエレクトロニクスF404エンジンを原型に製造されたボルボRM12アフターバーナー付きターボファンの初地上運転が行われました。


・1987年:にはJ-37ビゲンに搭載されたPS-05Aレーダーによって初試験が行われました。また、ビゲンはフライバイワイヤの試験も行いました。
同1987年、グリペン試作初号機がロールアウトし、全世界に公表されました。


・1988年:3月にグリペンにRM12を搭載し初のエンジンテストが行われ、1988年12月12月9日、記念すべきグリペンの初飛行が行われ、成功裏に終了しました。

しかし、グリペンもご多分の戦闘機開発に漏れず、開発にはトラブルがつき物でした。翌1989年2月2日、グリペン第6回目の試験飛行中…それは起こりました。
着陸の寸前、高度数メートルで突如機体が不安定になり、機首が上下に振られ、前傾姿勢のまま左翼から接地、約3秒間左翼を擦りつつ地上を滑走した後、機体がやや浮き、さらに左へロール、そしてさらに左翼から地面に叩きつけられ、パイロットはこの時点で脱出。さらに激しい右横転を繰り返した後停止しました。機体は大破しましたが、不幸中の幸いにもパイロットの命に別状はありませんでした。

この墜落事故の原因はデジタルフライバイワイヤコントロールシステムのソフトウェアが不適切なほど敏感な状態になってしまい、パイロットの意思以上のカナード操舵を行ってしまったためとされています。当然の如くこの問題により試験飛行は中断、翌1990年5月に試験飛行が再開するまで、実に1年3ヶ月のブランクが開いてしまいます。


・1992年:14機の複座型JAS39Bの開発契約が結ばれました。


・1993年:3月に1000試験飛行達成。6月に量産型初号機がスウェーデン空軍に引き渡されました。
しかし8月、首都ストックホルムにて公開展示飛行中、量産型2号機が墜落してしまいました。
低速での2G旋回を終えた後、水平飛行に以降すると、突如として左右にバンクしはじめて機首下げが起こり、パイロットが操縦桿を引いたところ、またしてもカナードがパイロットの予期せぬ最大操舵角に動いてしまったため、グリペンはSu-27フランカーの”コブラ”機動さながらの機首上げが起こり、コントロールを失います。デモンストレーションという事で低空であったことが災いし、リカバリーを放棄しパイロットは脱出。主を失ったグリペンは山に墜落しました。幸いこの事故で死者は出ませんでした。
試験飛行は中断し、同年12月に再開されました。


・1995年:6月、サーブとブリティッシュエアロスペース(現BAEシステムズ)の間に外国へのマーケティング協定が結ばれました。(現グリペンインターナショナル)
12月、2000試験飛行達成。

・1996年:4月、複座型JAS39Bの初飛行が行われ、成功裏に終わりました。
6月、空軍F7飛行隊にグリペンが初実用配備され、9月にて飛行が開始され、第4世代最初の戦闘機グリペンは、2機が墜落するという幾多の事故を乗り越え事実上の実働体制に入りました。




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